『二十歳の原点』
高野悦子と1969年立命館
天野 博
少女時代
1949年、西那須野の素封家の次女として生まれる。父は京大農学部卒、栃木県庁退職後、町長となった。
1966年1月、奥浩平『青春の墓標』を読み、彼の理論ではなく社会に対する働きかけに感動、以来心の友とする。

立命館新入生時代
1967年、文学部日本史に入学。国立一期校並みの難関であったから本人も家族も喜んだに違いない。
高野入学当時、自治会は多様で、経営と文はフロント(構造改革派)、経済は中核派、理工はブント(マル戦派)、産社と法ならびに二部は民青、一部学友会委員長は民青。
サークル活動は学術、学芸ともに新左翼が多数派であった。キャンパスには立て看板が並んで自由闊達な学園風景が展開されていた。
立命館では、中央事業団体としてマスコミ3パートが独立していて、学友会や学部自治会多数派と距離を持つ言論の自由が保障されていた。このような仕組みも立命館特有であり他大学に類例がない。学園新聞社はフロントと中核派、放送局は非民青ノンポリ、立命評論は中核派と色分けされていた。
5月1日メーデー、高野は民青の隊列に参加、部落問題研究会に入部。多感で純真なインテリにとって部落問題への取り組みは自然な流れだったに違いない。彼女は栃木の名家に生まれている。『二十歳の原点』の記述にあるが彼女自身も家族の中でも部落差別の雰囲気があったのではないかと思われる。

部落問題との遭遇
当時、部落解放同盟と共産党との対立が先鋭化し、矢田部落や八鹿高校などが注目されていたが、身近な話題ではなかった。
1966年4月 東上高志(京都部落問題研究所)『ルポ東北の部落』を発表、部落解放同盟、差別文書として糾弾を始めた。東上高志が立命館講師(同和教育担当)だったことから、学内に波及し東上馬原問題が起こる。馬原も同和教育担当講師(彼も共産党系)。解放同盟を支援するフロントなどの新左翼は民青との党派闘争をはじめた。高野悦子もそうだろうが新入生にはいきなりの難問だった。
共産党、民青は部落解放同盟の糾弾に対し「大学自治への干渉」と反撃。
他方、新左翼は、それは国家権力に対する論理、被差別者団体からの批判は受け入れるべき、と反論。6月、部落出身学生同盟結成し部落研との対立を深める。
東上の「東北の部落」に差別者の視点があるかどうかが、まず問われるべきとの解放同盟の批判は教員たちにある程度受け入れられるところとなっていく。解放同盟は1967年末、学部教授会それぞれに対し糾弾闘争を行い、産社学部を除いて「差別文書」に同意。同和教育担当講師を奈良本門下の師岡など非共産党系に変更。中間派教員が離れて共産党は影響力を失った。
高野悦子、部落研を退部(1968年4月)。

ベトナム反戦
1967年はベトナム反戦闘争が盛り上がっていった。10月 三派全学連が羽田闘争、京大生山﨑博昭が死亡。山崎君の死亡は学生たちの中に切迫感をもたらしていく。フォーククルセダーズ「帰ってきたヨッパライ」が爆発的ヒット。
1968年1月、佐世保闘争に三派全学連、市民が学生を応援。2月、三里 塚闘争に三派全学連が空港反対同盟と組む。

1969年、ノンポリ運動の始まり
『二十歳の原点』1969年1月2日から始まる。
今日は私の誕生日である。―――未熟であること、孤独であることの認識はまだまだ浅い。
7月 東大全共闘結成、全学部でストライキ
9月 日大全共闘、理事会との団交、3万を超える学生が参加
11月 安田講堂で東大日大闘争勝利集会、法学部連帯評議会参加

新聞社襲撃事件
共産党・民青は部落解放同盟に対する敗北感から脱却するため、また1969年3月末実施予定だった総長選挙のヘゲモニーを握ろうとして、12月、立命館学園新聞社への大量入社を暴力的に要求する襲撃事件を起こす。ノンポリ学生が立ち上がって新聞社の自立は守られた。共産党、民青はさらに深い挫折感を味わうことになった。立命館の公式な記録は学友会執行部を暴力学生が襲撃したことになっている。歴史の書き換えと言うべきであろう。
新聞社の自立を守り抜いた運動の主力、寮連合と法学部連帯評議会は全共闘結成準備会をスタート。新聞社事件にからみ師岡講師、「民青の陰湿な暴力」と発言、共産党・民青は集中砲火を浴びせ、文学部教授会、講師終了を通告。
上述のように、ベトナム戦争、70年安保闘争への切迫感を背景に、日大や東大全共闘を目の当たりにしながら、東上、師岡講師問題が絡み、新聞社襲撃事件をきっかけに全共闘運動へ向かっていった。
日大、東大闘争も盛り上がっており、こうして全共闘前史は形成された。

1969年、大学本部封鎖、高野悦子も
1969年、全共闘による中川会館封鎖と民青の封鎖解除をめぐる激動のさなか、法闘委は誕生した。1969年1月、安田講堂攻防戦を本部バリケードを守りながら、連帯とは何かを思案した。
法学部では当時二回生(1967年入学)が主力だったため、天野が委員長に選ばれた。選ばれたと言ってもバリケードに立てこもった二回生など十数人の結成集会であった。上級生も少なからずいたが、卒業間際の四回生には気の毒な局面でもあった。
新芽の一回生・つぼみの二回生・三分咲きの三回生・花の四回生・あだ花の五回生・狂い咲きの六回生
高野悦子、バリケードに入る。民青だったのにと怪訝するも、このバリケードが教職員も出入り自由だったし、民青から全共闘に合流する学生も少なからずいたので、敵対視しなかったと思う。
武装した民青の封鎖解除失敗後、正体を現した民青に対する批判が高まり、産社を除く5学部で全共闘派が多数になり、学内世論は大きく変わっていった。院生協議会、寮連合、学術本部、学芸総部などが相次いで全共闘に結集する。体育会は中立を保持するも反民青の姿勢。
法闘委は学生大会を独自に開催して学部の多数派であることを示そうとし、それは成功したが、存心館をバリケード封鎖するとの緊急動議が可決され、その夜は民青との激戦となり、ついに警察が導入されて全共闘は広小路から放逐された。全共闘は多数派で、崩壊しかかった共産党に勝利できる態勢にあったから、この緊急動議の背景は謎だ。
機動隊が西門から突入してきたとき、中川会館から「座りこめ」と演説した。日大や東大の主流となったMⅬ派へのシンパ心から、法闘委は黒白モヒカンのヘルメットをかぶった。

1969年、わだつみ像倒壊、高野悦子の死
1969年5月の恒心館退去。恒心館退去時にわだつみ像を倒壊させた。日文学生が引き倒したが、法闘委メンバーの女子学生が割れた像の頭に花を飾ったことからいつのまにか法闘委のせいとされた。わだつみ倒壊はキャンパスを沸騰させ、戦争責任をからめて広範囲な論争となった。世に言う「わだつみ論争」だったが、この論争のさなか、ひとりの女子大生、高野悦子がその生涯を閉じた。 『二十歳の原点』1969年6月22日で終わる。
闘争のない生活は、空気の入っていない風船、タマの入っていない銃、豆腐の上にのせたコンニャク、空っぽの膣、空中に向かって出された陰茎―――ではないでしょうか。
1969年6月24日、高野悦子、山陰線で鉄道自殺。
1969年10月10日、全共闘機関紙に「旅に出よう」掲載。高野悦子と民青時代親しかった法闘委メンバーが葬式に参加した折の印刷物から引用。

立命日本史
高野悦子が入学した文学部日本史専攻は、奈良本辰也、林家辰三郎、北山茂夫など看板教授がいて最難関。 奈良本辰也は部落解放同盟朝田委員長と親しく、部落問題解決には就職差別を突破口にしようとの考えで一致し、その運動の理論化を図った。末川総長後継の有力候補だった。


立命館学園闘争外史
連絡先:tugobua1969@gmail.com
天野博(Amano Hiroshi)
