立命館学園闘争の記録 『支配に抗う〈正史〉』の概要
序文
「この記録の第一の意義をどんなありふれた圧制者もいつもきまってやる歴史の捏造に抗する正史を世に問うことにおく。---5月20日、なんらのなす術もない無力感、自己嫌悪・自己喪失からの爆発的行動は---さめた反省を求めている。繰り返されてきた総括しきれない行動はついに全共闘の死をもたらした。7月のひとりの女子学生の死は全共闘の青春をして時代を転換するエネルギー装置の未成をよくあらわしており、全共闘の死の跳躍と同義である」
法学部闘争委員長 天野 博

一、発端
◇学園新聞社襲撃事件◇
立命館大学全共闘運動のそもそもの発端となった一部学友会執行部による学園新聞社への権力的介入(1968年12月15日)。
立命館では新聞社、立命評論、放送局は中央事業団体を構成し、一部、二部学友会と並列して特別な地位を有していた。この新聞社への介入は一般学生に危機感をもたらしたが、他方で五者共闘(教職組、学友会執行部など)は、新聞社を防衛した行動を「暴力」として問題をすり替えていった。

二、波紋
◇立命館民主主義への初源的問いへ◇
新聞社襲撃の実相を糊塗する収拾策として五者共闘による反暴力キャンペーン展開するも、クラス、サークルからあいついで抗議行動。院生協議会も批判に転じる。
「学友会の不当介入を許すな」―歴史学研究会。

三、闘いの開始
寮や法学部連帯評議会などが全共闘準備会を結成し理事会に大衆団交を要求するが、「学振懇―全学協が保障されている」として拒否。

四、崩壊と激戦
◇1月16日:寮連合、理事会との団交を要求して中川会館をバリケード封鎖。
◇1月18日:五者共闘、本部封鎖の実力解除行動に出るが中川会館前で焚火をたいて見守っていた一般学生に阻まれる。
◇1月20日:理事の相次ぐ辞任で崩壊した理事会にかわり大学本部なる組織を設置し本部名で「封鎖解除一万人集会」を呼びかけ再び実力行使に出るが、広小路キャンパスを埋め尽くした一般学生にまたも阻まれる。
◇1月21日:全学教授会、平和解決を確認したが、学友会執行部は従わず。
「日大生700名が向かっている」とのデマを使って中間派教員を説得し、大学本部が学友会にベニヤ板などを提供したことが暴露された。ここに至って何が「平和と民主主義」、どこが「暴力反対」かと、五者共闘への不信感が募った。

五、展開
◇二重権力化の無血革命◇
◇1月27日:立命館大学「全学生教職員訴える」声明。この声明は彼らの論理的破綻をあきらかにした。学生や教職員に訴えるこの立命館大学とは何者なのか、大学法人格を理事会、教授会、学友会で編んで行くとの立命館民主主義の理想は虚構であり、一般学生のアイデンティティを壊してしまった。
◇1月25日:全日本史闘争委員会「全ての争点を構築論」アピール、「現在、旧日本史専攻には我々学生が存在しているのみであり---全展開の主体者と我々はなりうる」
日本史は一番苛烈な闘いを続けていた。教員のすべてが辞職していた。元講師の師岡、助手高野が加わり、全共闘のなかで唯一、教員が合流し、「全日本史闘争委員会」と称したのだ。
◇2月7日:法学部学生大会、民青執行部の中川会館封鎖解除決議を否決し法闘委の大衆団交要求決議を可決して、執行部をリコール。
日本史とともに法闘委は全共闘の両輪であった。

六、天王山
◇2月9日:全共闘結成、6学部闘争委員会、学館闘争委員会、院闘、二部闘、寮闘の10団体に加えて、経営学部自治会、新聞社、立命評論、放送局、一部学術本部、院生協議会、寮連合がオブザーバー参加。
◇2月12日:総長、理事会団交
◇2月14日:入試

七、氷雨
◇革命の未完◇
◇2月18日:法学部学生大会、占拠拡大方針、存心館封鎖を決議し実行するも、民青との激しい攻防戦となる。
◇2月19日:末川総長、小田理事長、共同声明。
全共闘、共同声明を受け取り、中川会館から退去。
◇2月20日:京都府警機動隊、西門から侵入、全共闘、座り込みで抗議。

あとがき
「自明性を解体せよ」
暉峻 章(千田智之—法闘委書記長)

立命館学園闘争外史
連絡先:tugobua1969@gmail.com
天野博(Amano Hiroshi)
