天野 博/法学部闘争委員長

山田と高野が出会っていたことは当時、運動のメンバーには知られていなかった。彼女の書いた詩を全共闘機関紙に紹介したのは山田、機関紙編集メンバーは法学部闘争委員会だったことから、即掲載が決まった。

 その年のメーデーのデモで隣り合わせ、以後、話をかわすようになる。
「まだ純朴な雰囲気でしたね。----八坂神社までの行進です。
 彼女は京都の街をきょろきょろながめていたなあ」----
 山田が彼女に最後に会ったのは、京大キャンパスでの集会の場だった。
「髪はぼさぼさ、目はうつろで明らかに疲れた様子でした」 
 知人にもらった外国たばこを吸っていると、高野は「珍しいの吸っ
てるじゃない。これと交換して」と自分のたばこを差し出した。両
切りのピースだった。
 のちに高野の遺稿集が出版されたとき、その悩みの深さを知って山
田は動揺した。自身はすでに運動から身を引いていた。就職はあき
らめ行政書士の道を歩んでいた。

『日経新聞』2022年9月4日

 天野によると6月に「立命館高野悦子」集会を企画しているそうです。
 彼女の最初の本が出たとき、具体的に日時場所が書いてあったので、本の空欄に私の日記に書いてある出来事を書き込んでいきました。
 例えば4月25日午後から夜まで恒心館にいましたが、彼女も滞在していた約100人のうちの一人でした。デモなどかなりの部分で重なっていました。
 入学直後に参加したメーデーの集会、行進で偶然隣り合わせになり、それが縁で、キャンパスで顔あわせれば挨拶するくらいにはなりました。
 先日、新潮社の社員と話す機会があったのですが、「ニ十歳の原点」はドル箱の一つで社内には「高野悦子課」があるそうです。
 高野悦子のおかげで立命館ブランドは飛躍的に上がりましたね、大学当局の公式記録には高野悦子の名前は一切ないでしょうけど。

 親友白井に吐露している高野の思い出は昨日のことのように鮮やかに蘇るようだ。

 キャンパスプラザでの講義が決まったことから5月10日、山田に会って話を聞き出そうと自宅を訪ねたが、人の気配がなく置手紙した。山田は前日の9日に亡くなっていたのだった。貴重な資料が彼の書棚に残っているに違いない。

 謎が解け、二人が民青、共産党と別れ全共闘運動へ参加する契機が明らかになっていく。部落差別問題が勃発したからである。立命館を揺るがした差別問題、そして立命館ブランドの虚実については後述する。

コンテスタシオン!(立命館大全共闘機関紙より)

連絡先:tugobua1969@gmail.com

天野博(Amano Hiroshi)